金物卸問屋の街、商いで築いたこの土地の文化。

金物の街として全国にその名を轟かせる三条市は、新潟県の中央部に位置する人口約10万人の地方都市です。
この街が「金物卸問屋の街(三条商人の街)」と呼ばれる様になった歴史は江戸時代に遡ります。
この地域は信濃川、五十嵐川の合流地点にあたっており、治水対策の不十分な近世においては洪水が頻発し、周辺農民は甚だしく疲弊していました。1608(慶長13)年この地域が幕府直轄領となり、貧農救済のために江戸から釘鍛冶職人を招き、その製造法を農民に指導奨励しました。この結果、1624~1643年(寛永年間)には洪水の頻発する近接農村地域において「和釘」の製造が副業として盛んになっていきました。
1804~1817(文化年間)には農村の副業から発展した専業鍛冶が都市的工業として展開していきました。
それらは鍛冶町及び古鍛冶町を中心とする2つの地域集団でしたが、そののち、河川交通の便などから信濃川沿いの鍛冶町に集団地域を形成していきました。
この頃から、それらの鍛治製品を今まで氾濫に悩まされ続けた河川を使い地域外に売り歩く問屋が現れ始めました。
この時期の越後は、新田開発期で地域外の需要を把握している問屋の要望で三条鍛冶は従来の和釘から転換し開墾用鍬、鎌などの製造を行い、農機具鍛冶として様々な鍛冶屋へ発展していきます。
その後、「和釘」から始まったこの街の「ものづくり」は三条地域では、庖丁や農機具なのど刃物鍛治へ発展し、燕地域では、銅を叩いて伸ばす鎚起銅器や鍋、やかんなどのキッチン用品の製造へと発展していきます。

その多種多様な製造品目の影には必ず金物卸問屋の存在がありました。

彼ら商人たちは、全国のお客様の要望を聞き、それを燕三条の職人に伝え、一緒に新たな製品開発を行っていました。
この地域のものづくりの職人の幅広さは、当時の商人たちが職人たちと一緒に築きあげたと言っても過言ではありません。現在では燕三条で生産される商品は多種多様にわたっています。それにプラスして他産地からの商品も供給されており、新旧を問わず金物関連の商品では「三条に頼めば無い商品は無い」とまでも金物業界では言われています。

取扱商品は、大工道具、刃物、工具をはじめ金属加工製品、木製品、プラスチック製品、電動工具等々数万アイテムを組合事業所174社の金物卸問屋で取り扱っており、またその事業所は全国的に出向いており世界の国々とも取引を致しております。
新潟県には、北緯36度線が通っており、三条市はその中央に位置を致しております。そのような立地からも交通の便は大変良く、北陸自動車道「三条燕インターチェンジ」上越新幹線「燕三条駅」が隣接するようにあります。東京駅からは新幹線を利用して最短100分で到着致します。
このように、この土地は古くから金属加工の産業が根付き、その地場産業製品を全国に売り歩く商人達が発展させてきた商人の街だと言えます。